市川雷蔵、恩義と信頼の名作 没後50年、40本集め上映 池広一夫監督語る 映画大好き!

 

 「市川雷蔵祭」が東京・角川シネマ有楽町で始まった。雷蔵は1969年、がんのために37歳で早世。没後50年を迎えた今年は、彼の代表作「薄桜記」の4Kデジタル復元版を始め、計40本が上映される。多くの主演作を演出した池広一夫監督が思い出を語った。

 「50年以上も前の映画なのに皆さんに見てもらえてうれしいですね。でも古めかしくて、ちょっと恥ずかしいよ」と、今年90歳を迎える池広監督は笑う。

 1960年、大映で監督デビューした直後、永田雅一社長の不興を買って助監督に降格される。「永田社長を風刺する時代劇を撮ってね(笑)。その時に声を掛けてくれたのが雷ちゃんでした」。股旅ものの名作となる「沓掛時次郎」だった。

 「最初は『役者に言われて撮るのは嫌だ』と言って断ったんだけど、雷ちゃんが『僕の力を利用してくれ。池ちゃんが一人前になったら、今度は僕が利用させてもらう』と。僕が風刺劇ばかり作っていたので、『本格時代劇を撮ってみせろ』とも助言してくれました」

 「沓掛時次郎」が大ヒットして売れっ子監督になった後の64年、「眠狂四郎」シリーズの第4作「女妖剣」の依頼が来る。過去3作は客の入りが悪かった。「作品としてきちっとしていたけど、出来が良くても当たるとは限らないからね。会社に呼ばれて『これが当たらなかったら、シリーズは打ち切る』と言われたんです」

 売り出し中だった藤村志保の裸身、残像を利用した円月殺法の見せ方……。全12本のシリーズの方向性が決定づけられた。「いかにエンターテインメントにするかに知恵を絞った。東京五輪の真っ最中だったけど、劇場が超満員になってね。恩返しが出来ました」

 68年、雷蔵からの電話を受ける。「好ましからざる細胞が発見されて、入院しなければいけなくなった」という話だった。 「その後、『狂四郎』の最後の作品『悪女狩り』を撮りましたが、もう殺陣は出来ませんでした。

 69年7月17日の朝8時半、撮影所にいた私に、女房が『今、亡くなられたそうです』と泣きながら電話を掛けてきました。雷ちゃんの後継ぎにしようとした松方弘樹の作品を撮っている時でした」

 雷蔵が亡くなって2年後の71年、大映は倒産した。「雷ちゃんはゆくゆくはプロデューサーや監督をやりたかったようですが、実現しなかった。僕は雷ちゃんがもう少し年を取ったら、志賀直哉の『暗夜行路』を撮りたかった。『雷ちゃんとそんな話をしたなあ』と、いま思い出しました」

 

 

朝日新聞 Degital 08/30/19